Ballet

イースタは学校、スタジオ、お店も休みのところが多い。ルイーズもイースタ仕様になっていて、店内でエッグの商品がかざられている。ピエールマルコリーニもこの時期はプラリネはお休みで、イースターエッグに変わっていた。ちょっとショック。

日本出発前に久しぶりにバレエスタジオへ。
体がなまりすぎて、神経がこれほどにぶるとは。
クラスメートの11歳の女の子がレッスンの途中で踊りをやめて。部屋の壁際に座り込んですすり泣きはじめた。思うように体がついていかなくて悔しかったらしい。フランス語で先生が何かを言っていた。おそらく、途中でやめたことについて怒っているらしい。
わたしが思うにはバレエで一番つらいのは、先生の振りを一度みてすぐ頭と体でキャッチしてそれを音楽に合わせて再現すること。途中でやめるとすべてがパアになってしまうから、なにがなんでもおわりをきちんとみせないと、いい加減なところでやめるとそれがくせになってしまう。
普段にこにこしている子が、泣いた表情をかくして次のステップに挑んでいる姿はいじらしく思えると同時に大人の顔にみえた。


―――

友達が所属するバレエ団の宣伝です。
毎年公演は見に行っているのですが、今年はいけないのがすごく残念。バレエを見に行ったことない人は絶対行くべき。「眠れる〜」はわたしが好きな演目で、バレエではなぜか青い鳥や赤ずきんちゃんなどのキャラクターも登場しにぎやかで、結婚式の場面はパドドゥがダイナミックなリフトや回転がふんだんに取り入れられていて見ごたえがあります。もし興味があればご一報ください。


演目
ケネス・マクミラン生誕80周年
平成20年度
文化庁芸術祭大賞受賞
記念公演
『眠れる森の美女』全幕
     ケネス・マクミラン
 カラボスの魔法がオーロラ姫を100年の眠りへ

もし人生で一度だけクラシカルバレエを見るとしたら「眠れる森の美女」にすべきです。
この「眠れる森の美女」は、ケネス・マクミランの芸術創造における礎石であり、王冠のダイヤでもあるのです。
そしてついに、小林紀子バレエ・シアターによって、このマクミラン版「眠れる夜の美女」が光輝こうとしているのです。
       (デボラ・マクミラン)

日時 4月24日(金) 6:30〜
  25日(土) 3:00〜
      26日(日) 3:00〜

会場 新国立劇場 中劇場
(京王新線 初台駅 中央口直結)
チケット 全席指定
      S券 \12000
A券 \10000
B券 \8000
       C券 \6000

キャスト
24日・26日
オーロラ姫  島添亮子
デジレ王子 ロバート・テューズリー
カラボス 楠元郁子
 リラの精  高畑きずな

25日
オーロラ姫  高橋怜子
デジレ王子 中村誠
カラボス 楠元郁子
 リラの精  大森結城

大和雅美
中尾充宏
八幡顕光
横関雄一郎
      小林紀子バレエシアター
バレエ団としても30年振りの作品です

是非、家族やお友達、バレエに興味がある方いらっしゃいましたらご連絡下さい。

Capa展

午前はドイツ旅行の片付けと日本帰国の準備。

ブリュッセルに帰ると、カフェの雰囲気ががらりと変わっていた。欧米人は夜でも外で飲むのが好きらしい。室内の客は少なく、ほとんどが道のど真ん中にテーブルを持って座る。朝の3時までにぎわう。一人暮らしているこちらとしては人通りが多い分だけ安全でうれしい。


雑用ついでにCAPA展を見に行く。ユダヤ博物館と併設。サブロン地区のごくごく普通のアパート2件の室内を白く塗っただけの空間。

道路側と中庭を介して奥を1つの資料館としている。
中庭側のファサードは非装飾。
近所の屋根や外壁と空のコンストラストがきれい。この家は白が正解だ。



内部もごくごく普通のシンプルなスタジオで落ち着く。
蹴上部分はレースのような装飾のついたメタル面で、トップライトから透過する光がとてもきれい。バリケードのためのパイプ椅子が逆光をあびて偶然であるが象徴的にみえ、神聖な雰囲気だった。


以前曲淵先生の講義を思い出しながら、1932年からベトナム戦争までのCAPAの写真を堪能する。館内はそこそこ来訪者がいて、スーツを着た中年の2、3人組が目立った。

キャパの半生をまとめた30分ビデオを見る。
ロバート・キャパハンガリー出身。戦場カメラマンとしてフランス、スペイン、イタリア、ベルリンや中国、ベトナムなどを回る。
全体をみると、キャパがその時その時を伝える手法がわかった。全体をとらえるよりも人物の顔に焦点をあて、その瞬間の表情と写真の解像度の粗さが時間と状況を語っている。
「falling soldier」は当時の雑誌記事のサイズよりも額に入っているものの方がダイナミックでよかった。頭をぶちぬかれた瞬間の兵士の顔が真っ黒で見えない。右手から銃が離れた瞬間、手と銃はくろのグレインであらわされ、手と銃の間の空間は指2本分ほどドットがない。

日本にも来たことがあるらしく、こどもの笑顔やはにかんだ表情を撮っている。


キャパの略歴を見て、年齢にあせりを感じた。彼の活動、交際履歴は幅広く、若くしてなくなる。
19歳でブダペストを離れ、トロツキーの写真を現像し、
20歳でパリにわたり、女性写真家Taroと生活するが彼女は戦場撮影中に亡くなる。
23歳になった1936年からは世界が激動の渦に巻き込まれ、スペインのバルセロナビルバオで多くの写真を記録する。手をつないでシェルターに走り込む母娘、プロレタリア万歳の帽子をかぶった7,8歳くらいの男の子の顔アップの写真。つぶらな目をしている子供の顔はすごくクリアで、一度みたら忘れられない。

ドキュメンタリービデオではピカソやTAROを撮った写真、キャパ自身を撮った写真が多く、ときおりいらついた顔をみせながら、大半が笑顔で、つながったまゆげをあげて大きく笑っている。



これまでわたしは自分が写っていない写真には興味がなかった。キャパの半生を写真を通してみると、写真家自身のそのときの心境がうかがえたのは、それだけキャパが写真家としてすぐれていたということと、彼自身ひとをひきつけるものがあったのだ。人物の表情をみるとどの写真も目が輝いていて、撮影の際にファインダー越しに目をあわせていたんだろう。どんな状況下でも(弾丸が走るなかでも)ひととつねに向き合っている姿勢に感動した。

Lucien Kroll

雨の中少し遠出。
Lucien Krollの Metro Station Almaと Maison de la Medecinを見に行く。

ブリュッセルにも名建築は多い。他都市と比べ建築マップやガイドなど情報源が少ない。積極的にアンテナをはっておかないと見逃してしまう。
先生の勧めでPatrick Burniat etc. "An Architecture Moderne A Brussels Guide", Les Editions de L'Octogone,2000.を片手にルシアンクロール見学。

ルシアンクロールはもうすでになくなっているが、建築事務所は息子が運営している。

―Metro Station Alma, 1979-82
駅は地下鉄をはさんで大学キャンパスと寮をリンクする役目もある。不規則な多角形のボールト天井(?)が特徴。三角錐ガラスピラミッドのトップライトと天井の石タイルパターンが不思議。、

人工照明は柱を中心に大きく弧を描いて配列。

鉄筋コンクリート造。よほど木に執着心があるのだろうか。それとも梁は柱から派生するものという考えなのかな。ガウディのギュエル公園を凝縮した空間。


―Maison de la Medecin, 1970-75

医学寮だけでなくショップ、カフェテリア、小学校などのプログラムが混在。蒸気は出ていないがハウルの動く城よりも迫力がある。デザインも構造も細部まで多様なアイディアにあふれすぎて、破綻した様子。


寮の部屋の非常階段も部分的に表に出て、ファサードの一部になっている。使用者の希望とリクエスト、プラン変更のたびににすべて忠実に応えた。多様なプログラムと短命なものを皮肉ったデザイン。

オーディトリウムは外部と全く違うデザイン。鉄の構造、ガラスの屋根。温室の再現である。

コンクリート壁のパターンも木を意識。木の絵を彫り込む。

伝達法

コミュニケーションは難しい。
言いたいことが伝わらない。
もしくは言いたいことがわからないのか。

感動を即座に言語化あるいはビジュアライズしなければ。
人の表現方法を真似するのが一番早いかもしれない。でもコピーは禁じてだ。



19世紀末に彗星のごとく現れたアールヌーボデザインがなぜ建築界から姿を消したのか。
それはメディアのせいではないかと思う。


―パリのオルタ模写
ビクトール・オルタからはじまったアールヌーボ建築は、パリのギマールが模倣しパリに広まった。オルタとギマールの決定的な違いは、前者は鉄の使い方。オルタは装飾柱を建物構造と融合してデザインしたのに対し。ギマールは鉄を完全に自由に装飾表現できる材料として用いている。ベルギーのアールヌーボはヴィオレ・ル・デュクのアイディアからインスピレーションをうけ、さらに発展して鉄柱を建物を支える構造として用いている。

この頃、ベルギーのドローイングが世界に流出したという。
ギマールをはじめパリの建築家はオルタの空間、装飾デザインの影響を受けて模写したという。オルタの建築は哲学・芸術面に偏って伝播される。




―装飾
20世紀初頭にベルギーで多くのサンプルカタログが出版されるようになる。おもしろいのは、おまけ。カタログボックスに折りたたみ鏡がセットになっている。天井パターンのサンプルは本のサイズに合わせて、1/4に切り取られている。サンプルを合わせ鏡すると、3つの像が鏡にうつる。
するとあら不思議。1枚として広い天井全体がみえる仕組みになっている。シンメトリーなパターンが好まれるのは、本の大きさ制限とこの合わせ鏡のシステムからかな?




―写真
20世紀からは写真を挿入した本が出回る。ドローイングのように設計段階の絵ではなく、完成したもののコピーをどこでも手に入れることができるようになる。描き手の器量にかかわらず、ベルギーのバルコニーをウクライナでそっくりそのままつくることができるのだ。
現にアムステルダムのべルラーへの証券取引所のコピーがウクライナキエフにある。材料、ファサードから時計塔の位置、なにからなにまでそっくりそのままである。




―矛盾からアールヌーボの分極
この頃、ベルギーでは「模倣」と「オリジナリティの追求」の矛盾が生まれる。
自然美の芸術と、自然と建築を絡めた詩的な建築論が飛び交う。虫、動物、自然の要素などを説いた「AMO」という建築テキストがうまれたらしい。(講義説明から)

オーストリアやドイツでは装飾がどんどんシンプリファイされ、インテリア・外壁に白を基調としたデザインがほどこされる。また機能を組み込んで幾何学的になり、次第に曲線から直線へと変化していった。ヨーゼンホフマンのストックレー邸は、直線直角のひさし、シンプル化していった外観である。装飾と建物が次第に分離していきクロス型の塔の上にヘラクレス銅像がたつ。

逆にブリュッセルでは、「ファサードコンペティション」が催され、いちばん美しいファサードを持つ家のオーナーには賞が与えられる。建築家、そして市長にも賞が授与された。1905年ごろを頂点に、隣の家と違う顔、美しさ、差異を求める欲求がヒートアップする。そのころブリュッセルはエッタービーク、スカラべーク、いくセルエリアなど、市ごとに孤立していた。各市長がブリュッセル全体の街づくりに無関心であったため、隣市の対抗心が先駆していった。こうしてごてごてしてよくわからない、スタイルを組み合わせたコラージュのような建物ができあがっていった。



アールヌーボ運動が昔ながらの方法で、出版物、テキストや人を通じて伝わっていった。それにもかかわらず、伝播の速度、輸入輸出サイズの制限、写真などから、アールヌーボのデコレーションばかりが独り歩きするようになった。

コピーはおそろしい。写した瞬間、そのものをまるまる会得したと錯覚する。言語情報と視覚情報が一致したものを相手に届けるのはすごくむずかしい。

活力

傘はもういらないと書いたそばから雨が降る。

そんなときはブリュッセル市内の建築まわり。


田園都市郊外De Cite Moderne designed by Victor Bourgeoirに興味をもつ。オーストリア建築家Victor Bourgeoirの代表作品。(http://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Bourgeois)場所はthe Rue du Cubisme in the Koekelberg district of Brussels。
1922年から25年に工業者用住宅地として建てられた。コンクリート造の住宅は275戸(そんなに!)からなり、快適住宅を追求したものである。すべての住宅に同じ方向の光を、安全と、ローコストを求めた。「都市の中の集落」と言われる。
1920年代と言えばリートフェルトエラスムス通りの集合住宅が頭に浮かぶ。これはユトレヒトの郊外に位置し、工業者のローコスト大量生産の住宅を目指した。しかし売り込みに失敗し3戸×2棟しか実現しなかった。

現地に行こうと駅を出た瞬間、今日は無理だと悟る。夕方4時。ひとり。雨。低所得者の街区。
隠しナイフか痴漢スプレーが必要かも。

スタジオのサイト、Anderlechtに似た雰囲気のイスラム移民街でした。人通りが少なく、欧州人はいない。あたりに商店は数点。
気候のせいかもしれないが、パリのラビレットの方が安全だと思う。朝晴れた日に、かばんなしで、行こう。


これまでのわたしの経験からすると、移民問題は建築では解決できないと考えています。いかに工業者住宅が建築的によくても。
大規模な都市計画というのもケースによっては必要だと思う。イタリアの友人が「爆弾で一度更地にしたい」というのがわかる。
移民街=治安が悪いと決めつけてはいけないとは思うが、薄暗い街並み、他者を受け入れない閉鎖的雰囲気がした。



2日後にわかったのだが、そこはcite modereneではなかった。
グーグルマップの場所がずれていた。2キロほど北の場所だった。

明日出直そう。
失敗すると、思いもよらず他の場所が発見できてラッキーだ。
おそらくその場所はもういかないかもしれない。土地の出会いも一期一会。と自分にやさしくフォロー。

3月18日

事務的アナウンス

4月6日から19日まで一時帰国します。
ご用のある方はぜひ連絡ください。
旧携帯のアドレスはトラブルがありまして、PCのアドレスにご一報してください。


―――

午前

日本に帰る前のデータ整理。わたしは無精者。つけがまわってきた。写真のデータだけでDVD4G×4枚になりそうだ。
日の出が早くなってきた。8時に明るくなる。

留学半期を思い出す。われながらベルギー生活だったと思う。12月までにアムステルダム、パリ、バルセロナなどめぼしい都市は週末を利用して旅行した。ブリュッセルから1時間で主要都市をまわることができる。
1月、2月と雨・雪続き。プチひきこもり生活をはじめて体験した。私の場合は日本滞在時にはありえなかった。プチうつを経験した。
2月の学校の休み期間、他の生徒が自国に帰っている間は非常にさみしくて、部屋に閉じこもっていた。こわくて外に出ることができなかった。どこかのコラムニストが1月16日、ブリュッセルで「うつ前線」を観測したらしい。
インターンシップフォリオ送りをするものの、どこからも返事が来ず、拍車をかけるように世の中不景気のニュース。就職難。デプレッション

3月に入り突然、青空が広がり始めた。今日は夜7時まで明るい。
道を歩く人の表情も笑顔が見られるようになった。
グランプラスにおじさんが花を売りにくるようになった。
傘はもういらない。


午後

青天の中、授業に出席するアホは自分を含めて4人。
教授は怒り狂う。4人もいれば授業が成り立つと思うのだが。テンションはあがらないというのは理解できる。


ベルギー友人の誕生会をイクセル地区のカフェで。
イラストレータや広告関係の人が5,6人集まる。中にはミュージシャンも。
ベルギーは都市自体が小さいからいろんな職種の人がお互いに顔なじみらしい。カフェに集まって、ビールを片手に語らう。
小さな情報交換の場。オーストラリアの大学を16で卒業し、セントルーカスで建築を4年やり、その後トヨタ6年働き、現在は広告業やっている。ほんとかよ、と思うのだが、生き馬の目を抜くような人生を送る28歳がいるかたわら、ラカンブラ(ベルギー1の芸術大学)を卒業後はカフェでバイトしながら翻訳学校に通い、マスターのチャンスを狙っている28歳もいる。

多くは経済危機に翻弄されるが、それぞれ自分のペースでやっていく人もいる。


何を話すわけではないが、カフェで人と話すのが楽しい。気が合えばその人のウエブサイトをみたり展覧会を見に行く。
お気にのカフェをみつけて通うとなにかしら発見がある。今日の昼は思い切ってカフェを変えてみた。なんとはなしだが、インテリア、メニュー表、食べ物の出し方が全く違う。
家具も壁もピカピカではないが、ボトルを1つ1つの棚に色ごとで並べたり、サイズごとで並べたり。番地プレートを店の中に額縁と並んで飾ったり。パンの味も今日のはしっとりした丸パンで、かんだ瞬間にぱっと雑穀の風味が広がった。ホットチョコレートも店によって、チョコチップとミルクを別々にいれてだすところもあれば、チュッパちゃぷすのようにスティっクの先端に丸いチョコをさしてあたたかいミルクにつけこむのもある。
カフェもフラミッシュパートとフランス語圏との店があり、店員と顧客をみればわかる。警察官がよく出入りするのはフラミッシュパート。フランス語圏のカフェの方がおしゃべり好きなひとが集まっている感じがして個人的に好きです。
一概にはいえないが、カフェ文化もフラミッシュの方が閉鎖的な印象がする。

In brugge

伊東豊雄さんのブルージュパビリオンを見にブリュージュへ。
わたしがベルギーで建築を学んでいるというと、大使館員さんや大学の教授陣たちは必ず伊東さん!との伊東さんの名前がまっさきにでるので。

ブルッフ広場の真ん中にありました。



この場所にはもともとこの街の始まりであるローマ時代のカテドラルの礎石がありました。通り抜けること以外に機能がないパビリオン。内部空間は箱型屋根・壁に木の葉がへたりとついたように、蜂の巣状のアルミ構造に丸いアルミ板が溶接されています。紅葉の時期に公園の木々をぬけていくようでした。ハチの巣からこぼれるひかりと、丸板の影との重ね合わせがとてもきれいでした。
この街に合わせるようなものではなくて、まったく対立するようなものをもち込むことによって、この街を活性化させていこうとしたのらしいです。





ブリュージュは保存建築が多い街です。街の景観を守るのはよいことですが、建築家側の批判もあります。例ではブルージュのコンサートホール。これは国際コンペになり、ピーターアイゼンマンやロッテルダムの建築事務所が出展し争ったらしいのですが、審査の末結果的には街に調和した赤れんがファサードの建物に決定しました。ベルギーではなかなか自由な現代建築をたてることは難しい現状らしいです。これは実際にインターンなどで事務所内をみてみないとわかりませんが。
http://www.archguide.com/AG_noframe.asp?contents=http%3A//www.archguide.com/AG_Article.asp%3Fsection%3Darticle%26code%3D4%26year%3D2000






住宅のルーバー(?)も赤れんが。こういった煉瓦の使い方はめずらしい。これまでみたことがありません。なんのメリットがあるのだろうか。景観上以外の理由が思いつかない。





ブリュージュらしさ。
小さな運河が街全体をくるんでいます。


住宅街を散歩。
ときどき玄関をひらいたおうちもあって。いい住宅が多いです。生活を楽しんでいる様子がわかります。
イケメンみっけた。




街のはずれ、運河沿い、東側にはwind millがあり、のどかな風景が。ランドスケープと椅子があればそれでいい。




集合住宅。
一帯が同じ煉瓦の色で統一され、現代版ベギンホフのよう。
プランはわからないが、ひとつとして同じ棟はない。メゾネット式とみた。共同の中庭は住宅の外壁に囲まれている。7件か8件ごとに共同庭と、棟には3件分(?)の共同屋上テラスがある。


道と中庭との取り込み方が絶妙で、私有の中庭でありながら、住民以外も中に入りやすい空間に。




ベギンホフ。かつてはベギン会と呼ばれる人々が暮らした集合住宅の建物を指す。中世、結婚できない女性が修道女となり、世俗を離れつつもそれほど制限の少ない生活を送れるよう結束したコミュニティ。戦などの理由で男性の人口が減少し、かつ階級の差などもあり、適正な伴侶がみつけにくかったといわれている。私有財産や結婚によるベギン離れは許された。自分自身で労働して生活を営んでいた。(参照:田所辰之助他編集「世界の建築・街並みガイド4」、エクスナレッジ。)
ベギナージュは街路型、広場型、混合型があり、ブリュージュは広場型。

外からは素煉瓦の一街区が、門をくぐると、中央広場に。睡蓮が咲き乱れ、一面黄色と緑。

中庭に面しては建物ファサードが白く、他は素煉瓦肌を残す。

下界から切り離された、静かで落ち着いた空間。



ブリュージュはリングの中に街が凝縮してあり、さらにぺギンホフや集合住宅にみられるように、都市の中の小都市をつくる。コミュニティはとざされているのだけれども、建物規模でみると開かれている。建物の1階部をくりぬき、建物や道に「ゲートらしいもの」をつくり。興味を持って訪れるものを招く雰囲気がある。
上の写真はマルク広場とブルフ広場をつなぐ道。このような異世界をつなぐゲートは広場にかぎらず、ベギンホフや集合住宅にも多くみられた。