伝達法

コミュニケーションは難しい。
言いたいことが伝わらない。
もしくは言いたいことがわからないのか。

感動を即座に言語化あるいはビジュアライズしなければ。
人の表現方法を真似するのが一番早いかもしれない。でもコピーは禁じてだ。



19世紀末に彗星のごとく現れたアールヌーボデザインがなぜ建築界から姿を消したのか。
それはメディアのせいではないかと思う。


―パリのオルタ模写
ビクトール・オルタからはじまったアールヌーボ建築は、パリのギマールが模倣しパリに広まった。オルタとギマールの決定的な違いは、前者は鉄の使い方。オルタは装飾柱を建物構造と融合してデザインしたのに対し。ギマールは鉄を完全に自由に装飾表現できる材料として用いている。ベルギーのアールヌーボはヴィオレ・ル・デュクのアイディアからインスピレーションをうけ、さらに発展して鉄柱を建物を支える構造として用いている。

この頃、ベルギーのドローイングが世界に流出したという。
ギマールをはじめパリの建築家はオルタの空間、装飾デザインの影響を受けて模写したという。オルタの建築は哲学・芸術面に偏って伝播される。




―装飾
20世紀初頭にベルギーで多くのサンプルカタログが出版されるようになる。おもしろいのは、おまけ。カタログボックスに折りたたみ鏡がセットになっている。天井パターンのサンプルは本のサイズに合わせて、1/4に切り取られている。サンプルを合わせ鏡すると、3つの像が鏡にうつる。
するとあら不思議。1枚として広い天井全体がみえる仕組みになっている。シンメトリーなパターンが好まれるのは、本の大きさ制限とこの合わせ鏡のシステムからかな?




―写真
20世紀からは写真を挿入した本が出回る。ドローイングのように設計段階の絵ではなく、完成したもののコピーをどこでも手に入れることができるようになる。描き手の器量にかかわらず、ベルギーのバルコニーをウクライナでそっくりそのままつくることができるのだ。
現にアムステルダムのべルラーへの証券取引所のコピーがウクライナキエフにある。材料、ファサードから時計塔の位置、なにからなにまでそっくりそのままである。




―矛盾からアールヌーボの分極
この頃、ベルギーでは「模倣」と「オリジナリティの追求」の矛盾が生まれる。
自然美の芸術と、自然と建築を絡めた詩的な建築論が飛び交う。虫、動物、自然の要素などを説いた「AMO」という建築テキストがうまれたらしい。(講義説明から)

オーストリアやドイツでは装飾がどんどんシンプリファイされ、インテリア・外壁に白を基調としたデザインがほどこされる。また機能を組み込んで幾何学的になり、次第に曲線から直線へと変化していった。ヨーゼンホフマンのストックレー邸は、直線直角のひさし、シンプル化していった外観である。装飾と建物が次第に分離していきクロス型の塔の上にヘラクレス銅像がたつ。

逆にブリュッセルでは、「ファサードコンペティション」が催され、いちばん美しいファサードを持つ家のオーナーには賞が与えられる。建築家、そして市長にも賞が授与された。1905年ごろを頂点に、隣の家と違う顔、美しさ、差異を求める欲求がヒートアップする。そのころブリュッセルはエッタービーク、スカラべーク、いくセルエリアなど、市ごとに孤立していた。各市長がブリュッセル全体の街づくりに無関心であったため、隣市の対抗心が先駆していった。こうしてごてごてしてよくわからない、スタイルを組み合わせたコラージュのような建物ができあがっていった。



アールヌーボ運動が昔ながらの方法で、出版物、テキストや人を通じて伝わっていった。それにもかかわらず、伝播の速度、輸入輸出サイズの制限、写真などから、アールヌーボのデコレーションばかりが独り歩きするようになった。

コピーはおそろしい。写した瞬間、そのものをまるまる会得したと錯覚する。言語情報と視覚情報が一致したものを相手に届けるのはすごくむずかしい。